ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を題材としたNHKの朝のドラマ「ばけばけ」のオープニングに、大きな亀の上に四角い墓石のようなものが載った石像が出てきます。
これは島根県松江市の月照寺(〒690-0875 島根県松江市外中原町179)にあります。
亀型の台座は亀趺(きふ)というもので、これと同じような様式のものが他にもあります。
・中国 大秦景教流行中国碑
・高野山(大秦景教流行中国碑のレプリカ)(〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山)
・水戸徳川家の墓所(〒313-0003 茨城県常陸太田市瑞龍町)
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https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/477d9598b421d89f70f4e4d46b33024e
「亀趺」は「きふ」と読む。
語意は、「〔名〕かめの形に刻んだ碑の台石。転じて、碑の異称。」(日本国語大辞典)
亀趺は中国生まれですが、その建立は貴族階級以上にしか認められませんでした。
このシステムは、そのまま日本にも持ち込まれました。
亀趺が流行ったのは江戸時代からですが、江戸時代は身分社会が花盛り。
当然徳川将軍家の墓地に亀趺が群れをなしていてもおかしくありません。
ところが、寛永寺にはたった1基、それも徳川家とは無縁な僧侶の顕彰碑としての亀趺があるだけです。
増上寺には亀趺はありません。
では、徳川家は亀趺と無縁かというとそんなことはない。
水戸徳川家の墓地には、いくつも亀趺がみられるのです。
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亀趺と言っても、亀の甲羅に、頭部が2種類あり、亀のものと、龍になっている物があります。
松江市の月照寺の頭部は亀です。
墨田区向島の弘福寺の池田冠山の墓と行状碑、宇都宮藩主戸田忠怒の墓、
麟祥院(春日局の菩提寺)の顕彰碑の頭部は龍です。
亀形の台座の石碑の主にどんな共通点があるのか?
その徳を讃え寿命長久を祈るために「寿蔵碑(生前供養塔)」を建立しました。
古代中国の思想では「亀趺碑(きふひ)」と呼ばれ、本来は「亀」ではなく「龍」を象ったものとされています。
https://www.shimane19.net/photo/matsue-photo/1664
しまねまちなび
2枚目の画像に、大亀の写真があるのですが、頭部は首よりも新しく、首のところに接合部分があるように見えます。
これを見ても、頭部は材質が違うか、年代が違うように見えます。
「本当は「亀」ではなく、「龍」である」と書かれています。
・中国 大秦景教流行中国碑
亀の上にのっている石碑といえば、大秦景教流行中国碑である。
キリスト教のネストリウス派のことを記していると言われていて、英語ではChina’s Nestorian Monument 、Nestorian Stele、Xi`an Steleと呼ばれる。
(「Stele」(ステール)は、「石碑」、「記念碑」、**「墓石」**を意味する英語です。通常は直立した石版や石柱で、模様や文字が刻まれています。歴史的な出来事や人物の功績、宗教的な内容などが記されていることが多いです。)
画像は「学習院学術成果リポジトリ 清末西安の教育と日本人教習」より
「学習院学術成果リポジトリ 清末西安の教育と日本人教習」より
[17] 『支那文明記』には崇仁寺とあるが,『長安史蹟の研究』には崇聖寺,『考史遊記』には金勝寺とある。大秦景教流行中国碑のレプリカはホルムの手によって南の長江を渡り,上海からアメリカへ運ばれ,メトロポリタン美術館に保管された。そこで複数のレプリカがさらに造られ,それらは,フランスのギメ東洋美術館や大英博物館,米国のエール大学などに分けられた。西安で最初に造られたレプリカはバチカン美術館にあるとされるが,筆者は未見である。今後,調査の機会を持ちたいと考えている。なお,この碑の顚末は以下に詳しい。Michael Keevak “The Story ofa Stele: China’s Nestorian Monument and Its Reception in the West, 1625-1916” Hong Kong University press, 2008。
中国にある景教の石碑は、古くに中国にキリスト教が伝わっていたということを示す石碑だそうで1625年に発見されましたが、イエズス会により捏造された物だという指摘があります。
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大秦景教流行中国碑の英語版wikipediaは、以前は「Nestorian_Stele」という項目でしたが、今検索しても「Xi'an_Stele」にリダイレクトされてしまいます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Xi%27an_Stele
「Xi'an_Stele」では、「Nestorian_Stele」にあった懐疑派のことなど真贋の論争がまるまるなくなっています。
以下は以前メモっていた内容です。
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・高野山(大秦景教流行中国碑のレプリカ)
明治末から大正期にかけて日本に滞在し,「仏基一元(仏教とキリスト教の一元)」を研究テーマとし,当時外国の書籍が乏しかった日本に英書を送る運動をして,日比谷図書館に英書10万冊を寄贈したエリザベス・アンナ・ゴルドン夫人(1851-1925)が大秦景教流行中国碑のレプリカを高野山に設置したとのこと。
日本とユダヤは同祖であるという「日ユ同祖論」と同じように、中国にも「中ユ同祖論」があり、他の国にも「⚪︎ユ同祖論」があります。
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小泉八雲の墓は、〒171-0022 東京都豊島区南池袋4丁目25の雑司ケ谷霊園にありますが、googlemapで見ると、墓石の土台は亀ではないのですが、形が歪です。
「小泉八雲のアメリカ時代」高瀬彰典
(島根大学学術情報リポジトリ
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp › files)
小泉八雲とイエズス会が関係しているかと検索しましたが、この論文を読むと、イエズス会の宗教学校には通っていたが、いい思い出がなく、キリスト教には反感を持っていたとあります。なので関係はなさそう。
では出雲松平家がイエズス会と関係があるのか?
月照時の亀趺は、月照寺に祀られている歴代松江藩主のために、松平治郷(七代藩主)が父の長寿を祈願して建立したものですとのことで、関連は見つけられなかった。
https://cath-matsue.jpn.org/history/kyogoku1.htm
“京極高次供養塔”に因んで
松江藩二代藩主・京極忠高の父“京極高次”
初代藩主・堀尾家断絶後、若狭小浜(福井県小浜市)から入国した忠高が松江藩主を務めた
「日本キリスト教歴史大事典」(教文館)によると、竹矢町安國寺に供養されている京極高次は、1563(永禄6)年生~1609(慶長14)年没、キリシタン大名、大津宰相、若狭守、小法師小兵衛と称す。京極高吉の長男で、京極高知の兄である。キリシタン信仰に熱心な母・京極マリアの勧めで1601(慶長6)年~1602年に受洗した妻に続いて受洗している。
京極高次の父・京極高吉 1504(永正1)年生~1581(天正9)年没 キリシタン大名 近江上平寺城主長門守 妻は浅井久政の娘(のちの京極マリア)である。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000135350
月照寺の大亀の大きさや構造がわかる資料がないか
- 寿蔵碑・・・生前に自分で作っておく墓、存命中に立てておく墓(『日本国語大辞典』)。月照寺の寿蔵碑は7代藩主治郷が父宗衍(6代藩主)の徳をたたえ、五十賀のときに建てたもの。
https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/marugame-kyogoku
京極高次の子孫~丸亀藩・多度津藩~
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・宇都宮藩主戸田忠怒の墓 英厳寺跡
以前書いたブログからですが、
「シリーズ藩物語 宇都宮藩 高徳藩」坂本俊夫を読んでいたら、気になるものを発見。
宇都宮藩主戸田忠怒の墓は、亀の形の上に石碑のある形。
厳密には、戸田忠怒の墓の頭部は龍だそう。
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・水戸徳川家の墓所(〒313-0003 茨城県常陸太田市瑞龍町)
徳川斉昭 墓
https://ja.wikipedia.org/wiki/瑞龍山
瑞龍山(ずいりゅうさん)は、茨城県常陸太田市瑞龍町(瑞竜町)にある水戸徳川家累代の墓所。現在は管理上の理由で一般には公開されていない。
2007年7月26日に水戸徳川家墓所の名で国の史跡に指定された。
葬儀墓制は日本では珍しい儒教の形式によるもので、螭首亀趺(ちしゅきふ:亀の胴体に竜の首が付いている台石)とよばれる墓の様式である。
瑞龍山には累代藩主一族の墓以外に、朱舜水の墓がある。朱舜水は中国明代の儒学者であったが、明の滅亡に際して援助を求め来日し、清の成立に伴い亡命、帰化した。その後、光圀の招きで水戸藩を訪れ、水戸学思想に多大な影響を与えた。なお、常陸太田市は朱舜水の生誕地の縁で中国浙江省余姚市と友好都市交流をもっている。
(以前はあった螭首亀趺 のページがなくなっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/贔屓 (亀趺から転送)
wikipediaの編集ページを見ると2013年に 贔屓へのリダイレクトを書いた人がいます。)
http://www.tokugawa.gr.jp/zuiryu/
水戸徳川家墓所瑞龍山の保存整備事業の映像
亀趺の上に墓石があるのがわかる
「祭祀はいずれの宗教にもよらず、自ら儒教の教えを元に定めた方で祀っています。」
「無宗教である様式と規模は類例を見ることができません」
130上野公園の石造物(7)
春日通りは春日局に因んだ名前ですが、麟祥院はその春日局の菩提寺です。
山門を入ると左前方に寺の顕彰碑があり、台石が亀趺となっています。
- 春日局:明智光秀の重臣・斎藤利三の娘で、徳川家光の乳母となり、徳川幕府で活躍しました。
- 細川ガラシャ:明智光秀の娘で、キリスト教に入信しました。
- 両者は親子という関係ですが、キリスト教に入信したのは細川ガラシャの方であり、春日局はキリスト教とは関係がありません。
- 「忠」の概念: 儒学は「五常」(仁、義、礼、智、信)や「五倫」(父子の親、君臣の義など)といった道徳規範を説いており、この中の「君臣の義」、すなわち主君に対する忠誠が重要な徳目とされました。この「忠」の精神が、日本の政治体制において最高位である天皇への忠勤を尽くすという「勤王」の思想と結びつきました。
- 朱子学の「大義名分論」: 江戸幕府は支配秩序の維持のために朱子学を官学として奨励しました。朱子学では「大義名分論」が重視され、身分秩序や上下関係の正当性が説かれました。この思想は本来、幕藩体制を支えるものでしたが、逆に「日本本来の君臣関係は天皇と臣下の関係である」という解釈を生み、幕府よりも天皇を尊重すべきだという勤王思想の根拠ともなりました。
- 水戸学の影響: 水戸藩で発展した「水戸学」は、儒学(特に後期水戸学は中華思想にも由来する)と日本の国学的な思想を融合させたもので、「尊王攘夷」を唱えました。これは幕末の志士たちに大きな影響を与え、勤王運動を精神的に支えました。
- 行動規範としての儒学: 儒学は単なる学問ではなく、実践的な倫理規範を重視しました。幕末の勤王の志士たちは、儒学の教えに基づいた厳しい自己修養と倫理観を持ち、その確信に基づいて行動しました。
Blog鬼火~日々の迷走
小泉八雲 勝五郞の轉生 (金子健二譯)
寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の詔(みことのり)で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。
沢庵は投淵軒から怒って上京し、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、幕府に対する抗弁書(こうべんしょ)は沢庵自らが書いたといいます。幕府は中心人物である沢庵を羽州(山形県)上ノ山に流罪にしました。


